東北大学創立115周年・総合大学100周年記念事業特設サイト

教員インタビュー|100年のあゆみ ~わたしと東北大学 Vol.04

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文学部・文学研究科の過去・現在・未来 ー前 編ー

東北大学創立115周年・総合大学100周年を記念して、文学研究科長を務められた佐藤弘夫先生・森本浩一先生に対談していただきました。

聞き手は、現在文学研究科長を務める柳原敏昭先生です。

写真左から
対談者:森本浩一名誉教授(元文学研究科長)
    佐藤弘夫名誉教授(元文学研究科長)
聞き手:柳原敏昭教授(文学研究科長)

*この対談は、2022年11月18日に行われました。

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学生時代のことなど

柳原:東北大学創立115周年・総合大学100周年を記念して各部局で名物教員に歴史と未来への展望を語っていただくという趣旨で、この対談行わせていただきます。本研究科・学部では佐藤弘夫先生と森本浩一先生にお願いしております。
 お二人とも文学部・文学研究科出身で、研究科長をはじめ要職を歴任されていますので、とてもディープで興味深いお話が聞けるかと思います。よろしくお願いします。
 最初に、佐藤先生は日本思想史、森本先生はドイツ語学ドイツ文学という、それぞれ100年に近い歴史を有する研究室で教員をされています。今年は文学部も創立100周年です。100周年を迎えた感慨があればお聞かせください。それでは佐藤先生からお願いします。

佐藤:「日本思想」は歴史的にいろんな語られ方をしてきました。江戸時代の後半あたりから、日本はどんな国なんだという問題をめぐって、さまざまな言説が出てくるようになります。そこでは基本的に、「日本というのは素晴らしい国なんだ」、「世界でいちばんいいんだ」といったように、「いかに自分を立派に見せるか」という語られ方をしてきたんですよね。そうした中で、日本思想史研究室の初代教授である村岡典嗣先生は、初めて外から日本思想と文化を客観的に位置付けようとする視点を打ち立てた。そこが画期的なことだと思います。実は、日本思想史に関わるような研究室は、戦中まではいろんなところにあったんです。ところが、東京大学もそうなんですけれども、敗戦によってことごとくなくなってしまった。ただ、東北大学だけは生き残ることができた。そしてそこから、幸いなことにとても優秀な人たちが次々と世に出てくれた。きびしい政治的状況の中で、実証的な学問の伝統を守ってきたということは我々卒業生の誇りになっています。

柳原:戦時下では、国策によって「日本思想史」と名が付けられた講座が各地で作られたんですね。しかし、東北大の日本思想史研究室はそうではなかった。では、森本先生お願いします。

森本:私は学部では哲学研究室に所属しました。東北大学の哲学科は当時、現象学研究のメッカと言われていて、それに惹かれて来たわけです。東北大総長もなさった高橋里美先生などから続く学統で、もう亡くなりましたけど滝浦静雄先生や木田元先生(中央大学)が継承され、私が入学した頃は『存在と時間』の翻訳で知られる細谷貞雄先生もまだ東北大で教えておられました。哲学に限らず、各分野・研究室の個性と魅力がそれぞれに輝いていたという印象がありますね。文学系について言いますと、もちろん各国語の文学作品をインテンシィヴに研究するのが中心なのですが、それだけではない。ドイツ文学の初代教授だった小宮豊隆さんは、夏目漱石の弟子で付属図書館に漱石文庫を作ったことで有名ですが、日本文化に造詣の深い多面的な文化人でした。国文学の岡崎義恵先生は日本文芸学を提唱され、英文学の土居光知先生も文学の起源や東西交流を論じる広い視野をお持ちでした。単なる文献学で終わらない理論的な視点を尊重する学風が、文学系の伝統の中にはあったと思います。私は大学院に上がるとき哲学からドイツ文学に移った人間なので、そういう懐の深い伝統に助けられたと感じています。とにかく学部でも大学院でも楽しく勉強させてもらいました。いろいろな研究室に出かけていって話を聞く機会があったのも、すごく栄養になったと思っています。

柳原:ありがとうございます。森本先生の方から学生時代、院生時代の話が出ましたので、ちょっとそちらの話題に移っていきます。佐藤先生は学部入学が1972年で76年の3月卒業、大学院は前期課程だけで、すぐ助手になられたんですね。

そうです、はい。

柳原:そして、森本先生は学部入学が76年4月で、大学院は80年の4月から85年の3月まで在籍。私は実は80年の4月大学入学なので微妙に重なっていますね。もうすでにお話があったんですけど、学生院生時代に何か「東北大学ならでは」みたいな思い出とか経験とかがあれば教えてください。

佐藤:私の時はいわゆる大学紛争の最後の頃にぶつかっているんです。ただ、学生運動が一番盛んだったのはむしろ高校の時なんですよ。私は仙台一高出身ですけれども、高校でもストライキとかデモは当たり前のようにあった。そういう時代ですから東北大学に入っても最初は授業はあんまりなかったんですね。

柳原:それは大学が封鎖されていた時期よりは後ですか?

佐藤:封鎖があったのは私が高校生の時ですね。それが解除された後に入学しました。ただまだ授業はあまりなかった。だから仲間たちと集まって自主的な読書会を始めたんすね。いろんなテキストを使いました。丸山眞男の東京大学の講義録を読んだり、文学だと「家畜人ヤプー」などあんまり表に出ないような作品、大江健三郎の未発表の小説とかを読みました。あとは当時流行の民衆史ですね。安丸良夫とか色川大吉とか、それがとても面白かった。

柳原:それは日本思想史を専攻する人で集まっていたのですか?

佐藤:いいえ、専攻は全然関係なく、学部も関係ない。なにかの縁で集まった連中で読書会をして、あとは夜中まで酒盛するという日々でした。そして週末は山登りですね。とても楽しい時代を過ごすことが出来ました。

柳原:森本先生は高校生の時から現象学に関心があったんですか?

森本:高校の国語の先生から思想の手ほどきをうけたのがきっかけです。その先生に学んだ先輩たちが佐藤先生と同じ、学生運動の世代なんですが、大学で人文科学に進む人が結構いて、中央大学の木田元先生のところで現象学をやってるなんて話を聞くわけです。それで、メルロ・ポンティとかフッサールとかを読まなきゃね、っていう雰囲気が高校生にまで伝わってくる。

柳原:大学入学後、最初のクラスの顔合わせで、「私はメルロ・ポンティを研究するためにここに来ました」と自己紹介をした人がいました。「メルロ・ポンティって誰だろう」って思ったんですけど、そこで名前を覚えました(笑)。

森本:理学部の学生たちがバリケードの中で哲学の読書会やっていたという話も聞いたことがあります。外側からの歴史的評価と違って、その時代を現場で生きていた学生たちは、すごく真剣に物事を考えようとしていたんじゃないでしょうか。

日本文化研究施設

柳原:それから、お二人とも大学院の後、日本文化研究施設(日文研)の助手に就任されています。今、学部創立100周年記念行事の一環として、東北大学史料館で「阿部次郎記念館新規資料及び法文学部開設関係資料公開展示」というものを行っています。その展示資料に、阿部次郎とゆかりの施設である日文研の教員一覧っていうのがあったんですよ。
 この顔ぶれを見て驚くのは、のちに文学部・文学研究科の教員になった人がたくさんおられることです。助教授・講師のところに沼崎一郎先生、佐藤伸宏先生、助手のところは村上雅孝先生、中嶋隆蔵先生がいて、佐藤先生、森本先生ももちろんいます。それから、山室信一さんとか若尾政希さんとか、その後、日本の人文学を牽引するような人たちが、ここに集まっていたんだなあっていうことを改めて認識しました。

佐藤:今、青山学院大学の学長をやっている阪本浩さんも一緒に助手をやりました。

柳原:ここから優れた人材が輩出されているわけですが、最初からそういう人を選んで助手にしているからなのでしょうか。

佐藤:当時は研究室ごとのたこつぼ的な性格が非常に強くて、よそ様の研究室には足を運べなかった。だから勝手に他の研究室の先生のところに行って話をできるような状況ではなかったと思います。私は学生の時には自分の専攻分野と違うところに話に行ったら、ある先生に「そんな事しちゃいけない」って言われたことがあります。それと比べて日本文化研究は非常に自由なんですよ。

柳原:森本先生みたいに学部と大学院で(専攻分野を)移ったりすれば、それで問題になるぐらいですからね。

森本:そうですね。佐藤先生が言われるとおり、日文研では学際的な活動がリアルにできたというところがすごくよかったと思います。私がいた1985年に、日文研は東アジアをテーマにした国際シンポジウムを開催しました。準備から実施まで大変でしたが、私にとっては得がたい体験でした。文学部にとっても、国際会議とか国際シンポジウムなんてあまり耳にしない時代ですから、先鞭をつけたと言えるのではないでしょうか。日文研の先生方が核になって、文学部内外の研究者と共同研究を組織し科研費を取るみたいなことも盛んに行われていました。

佐藤:ほんとうにそうです。

森本:助手もそれに参加させてもらえましたし、オープンにアカデミックな議論ができる雰囲気がありましたね。だから、日文研がなくなったと聞いた時は本当に残念でした。もちろん、東北アジア研究センターに引き継がれていったわけですが。

柳原:おっしゃるとおり日文研は、系譜的には東北アジア研究センターにつながっていくわけですけれど、現在の日本学国際共同大学院は、日文研のある意味復活っていうことですよね。

森本:そのとおりだと思います

法人化とCOEプログラム

柳原:では、次の話題に移ります。ここからだんだん生々しくなってきます。皆さんが文学研究科に教員として赴任されて、さらに様々な要職を経られ、研究科長もつとめられる、この辺りの話を伺っていくことになります。まず、法人化前後のことやCOE(Center of Excellence)プログラムのことについて伺いたいと思います。
 国立大学が法人化したのは2004年の4月でした。国立大学、東北大学にとってとても大きな変化を経験することになりました。森本先生はその前後に、法人化に向けた対応を全学レベルで検討する総長企画室とか中期計画推進室にかなり長い期間参加されていました。

森本:はい。2000年の暮れから、途中ちょっと空きますけど、2006年ぐらいまでですね。

柳原:2004年が法人化ですから、まさにその前後ですね。ずいぶんご苦労されたのではないでしょうか?

森本:特に2002年頃が大変でした。企画室は、40代の若手教員が全学から集まって副学長を中心にブレインストーミングするみたいな感じで、組織、理念、人事、研究・教育評価などあらゆるテーマについて議論しました。この仕事と並行して、研究科内部でも法人化準備ワーキンググループが作られて、それにも加わりましたが、こちらは研究科長のもとで最初の中期計画を作るのがメインでした。さらにそこへ、21世紀COEへの応募という課題が浮上してきます。この最初のCOEは、まず研究科内でのコンペティションになり、野家啓一先生を中心とした文化科学専攻の「ウェルビーイング」の企画が選ばれました。それが全学の審査を通過して東北大学が応募するいくつかのプログラムのひとつになったのですが、しかし、文学研究科案は文科省審査で落選という結果でした

柳原:当時の研究科長はどなたでしたでしょうか?

森本:松本宣郎先生です。全学の企画室の方は、経済学部出身の馬渡尚憲副学長が中心でした。馬渡先生は人格者で、自由に議論させていただきました。会議の中で、理科系の先生としばしば意見衝突があったことをよく覚えています。例えば研究評価に関して、理系の先生は自然科学流の数値評価で行くのが当然みたいにおっしゃるのですが、私などは分野の特性を考えるべきだと抵抗するわけです。グローバル化の話題もすでに出てきていて、時代が人文系にとって厳しい方向に向かっているのを肌身に感じました。

柳原:「ウェルビーイング」が落選して、次に「社会階層と不平等教育拠点」(以下「不平等」)が採択されるわけですね。

佐藤:「不平等」は21世紀COEにも採択されています。最初の年が人文の部門で「ウェルビーイング」で応募して落選して、次の年に社会科学部門で「不平等」で応募して採択された。

柳原:「不平等」は21世紀COEとグローバルCOEの二回採択されたということですね。佐藤先生とCOEの関わりはいかがですか。

佐藤:主要な国立大学で21世紀COEの人文部門に採択されなかったのは東北大学くらいだったので、「今度のグローバルCOEはなんとしてもとれ」という命が下りました。グローバルCOEは21世紀COEよりも採択数が大幅に減らされました。かなり厳しいけどチャレンジしてみようかということになりました。テーマは「聖なるもの」です。柳原さんにも参加をお願いしました。長岡龍作さん・佐倉由泰さん・山田仁史さんとか、有能な若い人たちがいたから「これはできる」と思ったんです。理系部局の先生にも入っていただきました。
 実はあの時、私は、21世紀COEの成果の評価委員をやっていたんですよ。だから、「こんどは自分も申請するけどいいか」聞いたら、「構いません」という答えでした。そういう事情で、他のプロジェクトの成果評価を厳しくした方が、今度自分たちの申請が入りやすくなるとか、そんなことがずっと頭にありました。まあ、それはもちろんしなかったですけど(笑)。結果として、ほとんどが21世紀COEの継続で、新しく採択されたプログラムは全体で一件だけだったんです。我々は補欠、次点ということになりました。あそこまで頑張ったんだけど、結局100か0なんですよ。いろんな皆さんとかなり濃厚な議論できて、あれはあれでとても面白かったけれども、こういうプロジェクト研究のあり方というのはやっぱり非常に問題だと思いましたね。

森本:本当にそうですね。

佐藤:結果を聞いて、私はそのままソファーに倒れ込んでしばらく起き上がれなかったし。

柳原:記憶が蘇ってきました。落選したっていう時に、佐藤先生の奥様から「夫が落胆していますが、でもなんかすごくホッとしています」みたいなことをうかがった記憶があります。

森本:私も同じです。落ちた時は周りから「残念でしたね」って慰められましたが、内心ホッとしたのも事実です。「不平等」を推進された佐藤嘉倫先生は、本当によく頑張られたと思います。外部資金をとってくるのが必須みたいなパターンがこの頃から始まりましたね。そんなことにエネルギーを割かれるのはどうなのか、と誰もが思っていたはずですが、それがもう避けられない状況になってきたわけです。

後編は東日本大震災以降の文学研究科についてです。


佐藤 弘夫(Hiroo Sato)

略歴

1978年3月東北大学大学院文学研究科博士前期課程修了。博士(文学)。1985年盛岡大学専任講師。1992年東北大学文学部助教授、2001年同大学大学院文学研究科教授。2014年4月~2017年3月、文学部長・文学研究科長。2019年より東北大学名誉教授。同年教授として再任用されて現在「日本学国際共同大学院」を担当している。
著書に『日本人と神』(講談社現代新書、2021年)・『神国日本』(講談社学術文庫、2018年)、『死者の花嫁』(幻戯書房、2015年)などが、作家の柳美里氏との共著に『春の消息』(第三文明社、2017年)がある。

森本 浩一(Koichi Morimoto)

略歴

1985年3月 東北大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。1986年4月 横浜国立大学教育学部講師(1988年より助教授)。1996年10月 東北大学文学部助教授。2003年6月 同大学院文学研究科教授。2017年4月~20年3月、文学部長・文学研究科長。2022年より東北大学名誉教授。同年、東北大学教養教育院総長特命教授(現在に至る)。専門は文学の理論、ドイツ文学、言語思想。
著書に『デイヴィドソン』(日本放送出版協会、2004年)。主要論文に「隠喩と虚構」(2002年)、「物語経験の時間性」(2016年)など。

柳原 敏昭(Toshiaki Yanagihara)

略歴

1990年3月東北大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。1990年4月鹿児島大学法文学部講師、1991年同助教授。1997年4月東北大学文学部助教授(2007年より文学研究科准教授)、2010年同文学研究科教授。2020年4月~23年3月、文学部長・文学研究科長。専門は日本中世史。
著書に『中世日本の周縁と東アジア』(吉川弘文館、2011年)、編著に東北の中世史1『平泉の光芒』(吉川弘文館、2015年)など。

佐藤 弘夫(Hiroo Sato)

略歴

1978年3月東北大学大学院文学研究科博士前期課程修了。博士(文学)。1985年盛岡大学専任講師。1992年東北大学文学部助教授、2001年同大学大学院文学研究科教授。2014年4月~2017年3月、文学部長・文学研究科長。2019年より東北大学名誉教授。同年教授として再任用されて現在「日本学国際共同大学院」を担当している。
著書に『日本人と神』(講談社現代新書、2021年)・『神国日本』(講談社学術文庫、2018年)、『死者の花嫁』(幻戯書房、2015年)などが、作家の柳美里氏との共著に『春の消息』(第三文明社、2017年)がある。

森本 浩一(Koichi Morimoto)

略歴

1985年3月 東北大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。1986年4月 横浜国立大学教育学部講師(1988年より助教授)。1996年10月 東北大学文学部助教授。2003年6月 同大学院文学研究科教授。2018年4月~20年3月、文学部長・文学研究科長。2022年より東北大学名誉教授。同年、東北大学教養教育院総長特命教授(現在に至る)。専門は文学の理論、ドイツ文学、言語思想。
著書に『デイヴィドソン』(日本放送出版協会、2004年)。主要論文に「隠喩と虚構」(2002年)、「物語経験の時間性」(2016年)など。

柳原 敏昭(Toshiaki Yanagihara)

略歴

1990年3月東北大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。1990年4月鹿児島大学法文学部講師、1991年同助教授。1997年4月東北大学文学部助教授(2007年より文学研究科准教授)、2010年同文学研究科教授。2020年4月~23年3月、文学部長・文学研究科長。専門は日本中世史。
著書に『中世日本の周縁と東アジア』(吉川弘文館、2011年)、編著に東北の中世史1『平泉の光芒』(吉川弘文館、2015年)など。